勝廓寺について

勝廓寺は真宗大谷派の寺院です。
戸町説教所を前身としており、大正から昭和にかけて
周辺地域に真宗門徒が多く移り住んだことを契機に
寺院建立の気運が高まりました。
戸町トンネルが開通した折に埋め立てられた土地へ
御堂を建てましたが、当時は新寺建立の認可が下りず、
開基住職と門徒は御本山へ陳情。
既存の寺号をもちいて認可を得ることとなり、
新潟の勝楽寺から使われていない寺号をお譲りいただき、
昭和十三年に今の勝廓寺となりました。

建立して間もなく第二次大戦が始まり、戸町トンネルと
ソロバンドッグは隠し工場に使われるようになりました。
隣地である勝廓寺の本堂は接収され、軍の事務所となります。
そして原爆が投下され、およそ七キロ離れている勝廓寺も
大きな被害を被りました。
堂内は爆風で吹き上げられて屋根と瓦はずれ落ち、
御本尊は木が若かったこともあり、
衝撃で首が少し曲がってしまいます。
戦後復興し、二十年程後に御本尊の修繕を頼んだ際には、
もう木が乾いていて戻せないと言われ、
現在も当時のまま残っています。

首を傾げているようにも見える御本尊の姿に、
人間の愚かさと阿弥陀如来の本願に思いを馳せて
いただければと思います。

真宗のおしえ

親鸞聖人が明らかにされた浄土真宗の教えは、阿弥陀如来の一切の衆生を救わずにおかないという本願のもとに すべての人間は平等に救われるという教えです。
阿弥陀如来に帰依し「南無阿弥陀仏」と称えることが、すべての人に開かれた平等な救いの道であるといただかれました。
「南無阿弥陀仏」は私たちの思いや考えをこえて私たちにはたらきかけてくださる阿弥陀仏の呼びかけです。
そこには私たちを一人残らず浄土に生まれさせようという阿弥陀仏の大きな願いがあるのです。

自分の口から出したと思っている念仏なのですが、実は阿弥陀仏のはたらきがあればこその念仏なのです。
このはたらきによって、自己中心の世界に閉じこもっている無明の闇に、阿弥陀仏の智慧の光が当たり、開かれた明るい世界にみちびきだされるのです。

宗祖

浄土真宗の宗祖 親鸞聖人は1173(承安3)年、京都にお生まれになりました。
9歳の時、親鸞聖人は、後の天台座主・慈円のもとで出家されます。それから20年もの間、比叡山延暦寺で厳しい修行と学問に励まれました。
しかし、どれだけ修行と学問に励んでも、さとりを開く道を見出すことはできませんでした。

親鸞聖人は、29歳の時、比叡山を降り、道を求めて聖徳太子ゆかりの六角堂に参籠し、95日目の暁、聖徳太子の夢告にみちびかれて、法然上人のもとをたずねられます。
法然上人は、だれに対しても平等に「ただ念仏もうしなさい」とお説きになっていました。
親鸞聖人は、この教えこそ、すべての人に開かれている仏道であるとうなずかれ、法然上人を生涯の師と仰ぎ、念仏者として歩み出されました。

しかし、興福寺や延暦寺などの他宗から強い反発を受け、朝廷が弾圧に踏み切ります。
その結果、法然上人は土佐へ、親鸞聖人は越後へ流罪となりました。親鸞聖人35歳の時でした。

5年後、流罪が許された親鸞聖人は、法然上人の死を知ると、京都には戻らず関東へ向かわれました。そこで約20年間滞在し、常陸の稲田を中心に、念仏の教えを広く伝えていかれました。
親鸞聖人は、60歳ごろ関東から京都に戻られたといわれています。
『教行信証』を書きすすめるとともに、終生同朋・同行に手紙や書物を送り、念仏の教えを伝え続けられました。
1262(弘長2)年11月28日、親鸞聖人は90年の生涯を終えられました。

歴史(沿革)

明治8年(1875年) 開基住職 釋憲隆、大分県直入群竹田町に生まれる。
竹田町 真宗寺院「万徳寺」の僧籍に入る。
明治31年(1898年)式見 「浄満寺」に役僧として入る。
明治33年頃(1900年頃)小菅町在住の真宗門徒の要望により、同町の民家を借り申して出張所を設け、布教に従事す。
明治35年頃(1902年頃)常住し漸次、数年で人望を得て仏法益々興隆の趣あり。
明治40年(1907年)戸町方面の信徒の懇請を受け、本山当局との折衝により「本願寺説教所」として認可される。
戸町2丁目「釈迦堂」の提供を受けて本堂とし、信徒の寄付により庫裏を建て翌年3月に移転す。
明治45年(1912年)本堂の増築を行う。大正2年、親鸞聖人の御遠忌を勤める。
大正9年(1920年)蓮如上人御遠忌を勤め、客僧部屋を建立す。
(旧寺院跡地は現在、戸町ふれあいセンターとして使用されています。)
昭和5年頃(1930年頃)寺院昇格の志を立てるも、当時の憲法では新寺建立の許可は許されず、本山の働きにより新潟県上越市「勝樂寺」内寺の勝廓寺の寺号を譲り受け、移転のかたちを取り現在地小菅町に昭和10年(1935年)より本堂建設着手。
昭和13年(1938年)本堂落慶、戸町2丁目より庫裏も移転して名実ともに一寺院として威容完成する。
昭和16年(1941年)第2次世界大戦勃発により、兵器工場事務所として本堂を接収される。
原爆投下による爆風で本堂は大きな被害を受け、完全に復旧されたのは1995年でした。  
初代住職
二代住職
三代住職
四代住職
奧村憲隆 弘宣院釋憲隆
奧村憲正 順教院釋憲正
奧村憲之 弘誓院釋憲之
奧村憲和 釋憲勝

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施設案内

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年間行事

1月修正会
3月春季彼岸会
4月花祭り
6月門徒一日研修
7月永代経法要
8月盆会
9月秋季彼岸会
11月報恩講
12月除夜の鐘

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お知らせ

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アクセス

真宗大谷派弘誓山 勝廓寺

〒850-0934
長崎県長崎市小菅町4-13

お車でお越しの場合長崎駅より約10分
駐車場:10台

公共バスでお越しの場合小菅町下車 徒歩1分

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